誰でもできる夢の田舎暮らし

誰でもできる夢の田舎暮らし

久しぶりの更新。田舎暮らしの大変さから、田舎暮らしのすばらしさ、楽しみ方についての内容にしていきます。

いままでのことを頭の隅において、さあ田舎暮らしをエンジョイしましょう。

不自由なこと、不便なことそれを逆手にとって有効に活用していきます。ネット社会は田舎も都会もありません。今後の展開をおたのしみに。
posted by 芝山遼太郎 at 10:19 | Comment(0) | TrackBack(0) | 田舎暮らしの楽しみ方 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

車がなければ田舎では生きていけない

車がなければ田舎では生きていけない

 田舎へ行くと、一軒の家に車が3〜4台あるのが普通にみられます。まるで小さな中古車屋さんです。

 免許証をもっている人数プラス農業用トラック2台(1〜2tの車と軽トラック)は普通の農家ですから。


 昔からある集落の商店はほとんど店じまいをしてしまい、自動販売機が並んでいるだけになってしまいました。

 それにとって変わって車で30分位の町の郊外に、大きな駐車場を完備した大型のショッピングセンターや大型家電量販店、映画館などが集まった複合施設ができました。

 マイカーの普及により、赤字の路線バスは全て廃止になり、買い物にいくにも、年寄りが病院へ行くにも車が必需品になっています。


 隣町の高校に通う高校生は毎日送り迎えが多いし、小中学生も雨が降れば送り迎えです。

 車がなければ一日だって田舎の暮らしは成り立たたないといっても過言ではありません。


 また、車を維持する費用も馬鹿にはなりません。保険、税金、ガソリン代、車検など車両代金とあわせれば相当な額になります。


 月に10万円で暮らせる町や村などあるはずもありません。


 田舎暮らしはそんなに甘くはないのです。
posted by 芝山遼太郎 at 23:08 | 田舎生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

大勢の村人と楽しいパーティ(毎日やるわけない)

大勢の村人と楽しいパーティ(毎日やるわけない)

 これもテレビでよく放送されるシーン。


 自家製野菜を使った料理が並べられ、普段仲良くしている家庭の人たちがそれぞれ酒や肴を持ち寄り楽しくもりあがるというあれです。

 少なくとも私の住んでいる場所(十分すぎる田舎ですが)では、家族全員が家を留守にして、近所の家へ行き、楽しく宴会をするという習慣はありません。

 普通に考えてもそんなこと頻繁にやるわけないし、あっても年に1〜2回というのが現実的に考えられる範囲だと思います。 

 何かの行事の後、宴席をもつということはよくありますが、それはお父さんたちお母さんたちというように、限られた人たちの会になります。

 たくさんの家族が集まったパーティはやろうと思えばできるでしょうが、テレビのようなことが日常的に行われているわけではありません。

posted by 芝山遼太郎 at 23:00 | 田舎生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

近所からたくさんのおすそわけ(あるわけないでしょう)

近所からたくさんのおすそわけ(あるわけないでしょう)

 テレビで時々田舎へ移住した人たちを取り上げた特集番組を放送しています。


 みていると、近所の農家からは野菜が毎日のように届けられ、漁師さんからはとれたての魚(それも高級魚が)が差し入れられる。だから食費は月3万円ですみますという内容で「田舎は人情があっていいなあ」と思ってしまいます。

 しかし、はっきりいってそんなことはありえません。

 たまたま、テレビの取材が入ったと聞けば、そりゃ近所からたくさんの野菜や魚が届けられるということはあるでしょう。でも、それっきりです。


 時々野菜が届くとしたら、それと同じくらい、あるいはそれ以上にこちらから何かを届けているはずです。



「畑にはたくさんの野菜があるのだから、一個や二個届けてくれたってどうということはないじゃないか」「魚が大きなトラック何台も獲れたのだから、2〜3匹ぐらい」と思いがちです。

 でも、それを作っている人や獲ってくる人は命をつなぐ生活の糧なわけです。「少しくらいいいじゃないか」と思うならば、自分に置き換えてみて下さい。自分や会社が生産販売しているものを、「少しだから無料であげてもいいや」とは思わないでしょう。


 近所のつきあいを円滑におこなうためにも、珍しいものが手に入ったら、おすそわけをする。そうすることで相手からも返ってくる。そういった生活のうるおいはほしいですけれどね。
posted by 芝山遼太郎 at 21:20 | 田舎生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

理詰めでしゃべるな。情が先

理詰めでしゃべるな。情が先

 田舎暮らしにあこがれて都市部から田舎に来ると、不合理なことがたくさん目につきます。「これはおかしい」「それはこうではないか」ということがあるものです。


 しかし、長い伝統と歴史というだけで、みんながそう思いながら、あいも変わらず続いているということがあります。それを「なぜ」と問い詰めても答えは出ません。

 世の中そういうことが多く、確かに理論的にはその通りで反論の余地はないのですけれども、それだけでは割り切れない「情」の部分を認めないと、人間関係は円滑に動いて行きません。(それができない人もいますが)

 反面、あまり情ばかりが先行すると世の中の規則や規律があいまいになりますが、要は相手を思いやる気持ちをもてるかどうかです。

 特に、田舎の組織はきちんと明文化されている訳ではなく、慣習やしきたりがものを言うことが多くあります。

 皆、自分の意見は正しいと思っています。お互いそれぞれに言い分はあります。不合理だと思うことでも、それで社会が動いているわけです。


 言うべきことはきちんと言うということは大切ですが、それ以外は理論的におかしいから認めないというのでは社会は成り立ちません。

 妥協するのではなく、かといって自分の意見を通すのではなく、大人の生き方をしてほしいものです。
(不正や法律違反には断固とした態度で)
posted by 芝山遼太郎 at 14:08 | 田舎生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

新興宗教勧誘の甘い罠

新興宗教勧誘の甘い罠

 農村の人たちは新興宗教を嫌います。長年にわたって伝統的な宗教である仏教(天台宗や真言宗など)を生活の基本とし、産土の神や神社を崇拝し、様々な行事を行ってきました。
 ですから、農村の人に勧誘されることはありません。(稀にはありますが)

 都市の近郊にある農村では、小規模の住宅団地やアパートがたくさんでき、都市への通勤者が移住してきた地区が多くあります。そういう地区では特に気をつける必要があります。

 はじめてきた土地で知り合いもなく、何も様子のわからない家をターゲットに勧誘のワナはやってきます。

 親切に話し相手になったり、困ったことで相談にのったりして家族ぐるみで仲良くなると、勧誘が始まります。

 集会に誘われ、大勢の前で紹介され、みんなと友達になり(みんないい人ですから)
いつのまにかメンバーになっているというわけです。

 新興宗教だから何が悪いということはありませんが、自分にその気がなかったのにいわゆる「洗脳」されていつのまにか信者になっていたというのは、決して本意ではないでしょうから。

posted by 芝山遼太郎 at 14:06 | 田舎生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

よそ者扱いは3代続く

よそ者扱いは3代続く

 水田のある地域というのは、古くからある村が多いようです。

 弥生時代とは言わないまでも、数百年の歴史は普通であり、10代、20代続いている家もそう珍しくもないようです。

 その一族が近所に分家して形成された集落も多く、70軒ある地区の苗字が4つしかないことだってあります。

 江戸っ子は3代といいますが、先代、先先代が始めた家は決して旧家ではないのです。10年位前にその地に入って住み着いた人は、なじんで地区の住民と本当に認められるのには100年くらいはかかるのです。

 まして、戦後に(太平洋戦争)入ってきた人は60年以上たっているのによそ者扱いで、神社やお寺の総代(役員)など最初から対象外です。

 別にあからさまに差別されることはありませんが、目立ちすぎると「最近来たばかりなのに(60年でも)」という認識は自然にもたれるのです。

posted by 芝山遼太郎 at 14:03 | 田舎生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

忘れるな。荒れた林でも個人の所有

忘れるな。荒れた林でも個人の所有

 田舎の山道やあぜ道を歩いていると、春はふきのとうやせり、よもぎなどが出ていたり、初夏になると竹の子やみょうがなども目にすることができます。みずみずしい山菜につい近寄って摘んでしまいたくなります。

 ちょっと位なら誰もとがめだてはしませんが、車で乗りつけ根こそぎとったり、竹の子を道具(スコップなど)を使って掘ったりすれば場合によっては警察に通報されます。

 それが、手入れのされていない荒れた林や畑であっても、個人の所有である以上無断でとってはいけないのです。

 「荒れた土地にいっぱい出ているんだから」「どうせ持ち主がとるわけでもないだろう」と思ってもやはりだめです。

 散歩がてらとってだめというわけではありませんが、要は常識の範囲です。

 ただし、畑のものは一本たりともとってはいけないのはいうまでもありません。
posted by 芝山遼太郎 at 10:50 | 自然と環境 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

理屈なし。革新的なことは言うな

理屈なし。革新的なことは言うな

 田舎というところは、ほとんど例外なく保守的な考えがまかり通り、極端な変化をきらいます。100年一日のごとく同じことが連綿と続けられています。

 政治の面をみても、町議会の議員構成は9〜10割が保守系無所属であり自民党支持者です。もちろん住民もそうであり、農地を持っているいる人は全て農林族議員の支持者です。

 ごくまれに、宗教団体を母体とした政党や、かつての小作争議を応援した革新政党の流れをくむ議員もいますが、過疎化に悩む地域では、当選できる票を確保できるまでの支持者数がなく、また、投票所にいく足のない老人が増え、投票率は伸び悩みです。

 新興住宅地やサラリーマン世帯を多く抱えた市町村はこの限りではなく、様々な価値観を持った人がいます。

 昔ながらの農村地域では、反体制的なことや町政批判をすると、正しいとか正しくないとかではなく集中攻撃を受ける場合があります。

 お上の(実態はない)いうことには逆らわないというDNAが生きているのかもしれません。

 オンブズマン組織などあろうはずもなく、公金の使途など不明瞭なことが多いのも事実です。
posted by 芝山遼太郎 at 10:35 | 田舎生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

肩書きなんか通用しない

肩書きなんか通用しない

 数年前、私の町で町長選挙があり、この町出身の県農林部長を定年で辞めた人が立候補しました。ほかに現職町長と新人の計3名による選挙戦となりました。結果は、現職の町長が再選されました。

 元県の農林部長の落選を決定付けたのは立候補表明の演説の一言でした。「町政は行政のプロにお任せください。」

 今までの肩書きを前面に打ち出した演説が、地元の問題点や懸案事項に全く触れず、「とにかくプロの自分にまかせておけばいいんだ。」という、聞くほうにしてみれば、田舎をなめたものととらえられたのです。

 たしかに、行政手腕はあるだろうし、県庁との太いパイプがあるにもかかわらず、落選の憂き目にあったのです。

 町民と同じ目線で、同じ悩みや問題を共有し、ともにがんばりましょうという連帯感がなければ、田舎では受け入れられないということになります。

 何も言わなくとも、にじみ出る品格と教養。もの静かなしぐさ、じぶんで言わなくともどういう人物かは自然にわかるものです。そして、どこからか「あの人は、元県のえらいお役人だってよ。」ということが聞こえてくると、尊敬のまなざしにかわるものです。

 これは何も田舎に限ったことではないですよね。
posted by 芝山遼太郎 at 10:19 | 田舎生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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